未来の歌について、あれこれ考えてみました。
特に「歌う」という行為についてです。
他人とともに歌うという行為が「悪」となったとき、ヒトはなぜ歌うのか?
ひとりで歌う歌とは、はたしてどういったものになるでしょうか。
「歌」は2つに別れるだろうと想像します。
プロ志向と、アマチュア志向と、です。
プロ志向の歌には、まぁ、とりたてて問題はないです。
あえてうがつなら、「なま歌」の軽視ぐらいが考えられます。
人前で歌うことは御法度ですから、プロ志向の歌は、動画やライブ配信といった伝達方法になるでしょう。
ライブハウスや路上ライブは、もう無理ですからね。
動画は録音媒体です。
ライブ配信も、今でもライブコンサートで口パクがあたりまえなのですから、事前に録音された音源を使うことが予想されます。
「なま歌」の軽視が起こるだろうと思います。
ネット文化の負の側面なのか、メロディーやリズムが狂うと、あれこれ批判される世の中になりました。
そんな批判を受けるぐらいなら、ピッタリ楽譜通りに歌った、録音したものだけを公開するようにしよう、と。
今でもこの傾向が強いですが、今後ますます、なま歌は軽視されていくでしょう。
おそらくプログラム技術は、もっともっと進歩し、ピッチ補正などの歌声加工が簡単になります。
ひょっとしたら、AI(人工知能)を使い、マイクを通った声が瞬時に歌ウマ声に変換されるようなテクノロジーが、あたりまえになるかもしれません。
歌い手見習いなど、誰もが、手軽に、そんなテクノロジーを使うようになるでしょう。
きっと歌は、たとえどんな世界になったとしても必要とされるでしょうから、「プロ志向の歌」が無くなることはないでしょう。
なま歌が軽視されるのは気に入りませんが、プロ志向の歌には、とりあえず問題視することはないです。
問題視すべきは、アマチュア志向の歌です。
ひとりで歌うアマチュア志向の歌って何でしょうか?
今までは、べつにプロになる気のない人でも、仲間とカラオケへ行くなどのために、歌をおぼえていたことでしょう。
こっそり練習することもあったでしょう。
しかし、もうカラオケは「悪」です。
人前で歌うことすら許されない世界が、新しい世界なのです。
こんな新世界で、ひとりで歌う歌とは…?
おそらく、たぶん、剣術のようなものになるのではないかな、と予想しています。
日本には「剣術」というものがありますよね。
剣道ではないですよ。
竹刀で叩き合うスポーツではなく、本物の日本刀を使って、人を斬る技術を習得する古武術です。
なんのために、そんなことをやるのか?
おそらく、きっと、剣術を習っている人のほとんどは、人を斬る経験もなく人生を終えるでしょう。
そんな経験があったら、ヤバいです。
たしかに江戸時代ならば、剣術はそこそこ役に立つものだったかもしれません。
でも今は、きっと役に立つとは考えられません。
つまり、剣術は社会性を失っているのです。
歌うことと同じです。
どれほど剣術を修行しても、それを他人に披露する場はあらわれません。
今はもう時代が変わったのです。
剣術を習うことは無意味です。
ひとり遊びみたいなものです。
とはいえ、日本には少なからず、本気で剣術を修練されている方々が存在します。
彼らは時代に取り残されたシーラカンスなのでしょうか?
違いますよね。
彼らは、彼らなりの理由があって、剣術を修練されているはずです。
おそらく、精神と肉体の鍛錬、道の会得、克己、修養、etc.
きっと彼らは求道者なのだろうと思います。
おそらく、アマチュア志向の歌も、求道者の剣のようなものになるのではないでしょうか?
歌から社会性が失われ、ひとり歌うしか許されない世界にあって、プロをめざすでもなく孤独に歌う歌…。
まさに、「求道」という言葉がピッタリきます。
声練屋は、パンデミックの前まで、あまり積極的に高音の出し方を教えてきませんでした。
健康を害する危険性が高い、と考えてきたからです。
しかし、パンデミックが起きて世の中は変わりました。
こんな世界にあって、それでもなお、あえて歌を歌おうとする人とは、求道者なのではないか。
たとえ身に危険がおよぼうとも、まるで意に介すことなく、求める道をひたすら突き進む人なのではないか。
ならば、高音の出し過ぎで中気になろうが、デスボイスの出し過ぎで声帯がボロボロになろうが、そんなの声練屋が気にしなくてもいいのかもしれません。
むしろ、そんな気兼ねは求道者に対して失礼でさえあるかもしれません。
ですので、パンデミック以降は、高音の出し方など、危険の伴う発声法についても発信していくこととしました。
こんな時代に歌なんて歌うヤツは、珍奇な変人。
あなたもぼくも同じ穴のむじなです。
よろしくお願いします。